パソナとの付き合いはなぜか長い。
パソナは俺が始めて南部社長に会った20年前は
かつてはテンポラリーセンターという人材派遣会社であった。
現在52歳であるが彼は関西大学を卒業後、
多くの就職試験に失敗し大阪の団地の公民館で
子供相手に塾をして食べていた。
ある日、子供の母親達が話していることが耳に入ってきた。
「毎日フルタイムで働くのは無理だけど好きな時間に好きなだけ
働く事ができればいいのにね」
そして就職試験で会社訪問して雑談で聞いた。
「正社員で採用するのはできないけど、必要な時だけ働いてくれる
人がいればなあ」
南部さんはこの時閃いた。企業の求めるものと主婦が求めるものを
一致させればこれは凄まじいビジネスになるはずだ。
これが日本での人材派遣ビジネスの始まりだった。
パソナは今では日本でナンバー1の人材派遣会社になり
南部靖之さんはまさにベンチャー企業の雄となった人なのだ。
俺は南部さんの本は10冊は読んでいた。
俺が独立して起業した頃、すでに南部さんは押しも押されぬ
テンポラリーセンターの社長であった。
俺が起業して一年たった頃、企業向けに通訳の派遣をやっていた
関係でテンポラリーセンターの新規事業部の人間と人を介して
知り合った。
そのプランを手伝って欲しいと言って企画を俺に話し始めた。
その頃日本企業はバブル前の好景気でアメリカへの投資が
とにかく盛んでマンハッタンでも多くの日本企業が現地法人を
開いていた。
しかし事務所は開いてみたものの、駐在員は置いてはみたものの
事情は分からず、英語は分からず、会社登記や弁護士の選定、
住居、電話、郵便、車、免許、通訳手配、従業員の採用など
分からないことばかり。
それらを人材派遣を含め総合的にサービスを提供する企業向け
何でも便利屋サービスみたいな企画だったのだ。
名前をプレステージクラブと名付けていた。
今ではプレステージクラブはパソナグループでは立派な会社だが
全くの初期段階での相談に見えたのだ。
彼は俺を気に入ったのか何度も何度もオフィスを訪れた。
その頃の俺はまだニューヨークなど一度も行ったことはなかった。
彼も同じである。しかし彼と夢の新規事業のプランを話すのは
実に楽しかった。仕事抜きの話であったが時間を忘れてしまっていた。
今考えると幼稚なビジネス内容で赤面するが当時はおおまじめだった。
面白いサービス内容も盛りだくさんだった。
日本食の弁当手配、カラオケの手配はまだいいがマンハッタンで屋形船
はどうかと言う。日本の屋形船はアメリカ人には東南アジアの
難民船にしか見えないだろうに。
そして大きな地図を持ってきて事務所の場所まで考えてた。
決めた場所はクイーンズ。JFK空港にもマンハッタンにも近いという
理由からだ。(今思うとあんな不便で治安が悪くマンハッタンから遠い
あの場所を検討したというのがほんとに恥ずかしい、実に俺は子供だった)
そんなこんなでも俺がある日テンポラリーセンターに行った。
当時は日比谷国際ビルと日比谷プレスセンタービルに
テンポラリーセンターはオフィスを構えていた。
一流のオフィスビルだった。
俺が吹き抜けの3階から下を偶然見たら一人の男がまた偶然
上を見上げているではないか。
「あ!南部靖之さんだ」俺は写真では見ていたのですぐにわかった。
目があった。
俺は目礼を軽くした。そしたら南部さんは素晴らしい笑顔で手で
軽く敬礼らしきあいさつをしてくれたのだ。
これが南部さんとの初めての出会いだった。
しかし一瞬で俺は南部さんのファンになってしまった。
これだと思った。彼には一瞬にして人の心を捉えてしまう
何かがあるのだ。まさに人の上に立てる男なんのだ。
俺が心から尊敬する男の一人だ。
そして行く先々でパソナと南部さんとは不思議な縁を感じることになるんだ。続く・・・・・・