まだNYで人材紹介業(エンプロイメン・エージェンシー)から
ヘッドハンティング業(エグゼクティブ・サーチ)に業務の中心が
移行していた頃、大手商社の兼松ニューヨークからアサイメント(仕事)があった。
中国国内に日本のNECの電話と衛星通信のシステムを売り込むための
プロジェクトを三菱商事、住友商事、三井物産、丸紅、伊藤忠そして兼松
がコンペで政府に入札する事になった。
フィジビリティー・スタディー(採算が合うかどうかの下調査)は2年、通信基地は瀋陽と言う条件だった。
総額5000億に迫るビッグプロジェクトだった。
(ちなみにビジネス界では三菱商事を「商事」、住友商事を「住商」、
三井物産を「物産」と略称で呼ぶのが慣習だ。
俺の会社への依頼は瀋陽への土地勘があって英語、日本語、中国語の操れ通信技術にも明るい中国人を2年間派遣して欲しいとの依頼だ。
ニューヨークと東京オフィスでダブルで人材探しを始めた。
通常企業役員をリサーチする場合、候補者のリストアップは
興信所に依頼するのが常道だが今回はそんな時間はかけていられなかった。
NYでは中国人社会へのコネがこの場合物をいう。
知り合いの中国人の家具メーカー社長やレストランのオーナーに
人材の紹介を依頼した。
東京とNYで探した5人の中から一人の最適な人材が見つかった。
彼はサンフランシスコ(SF)にいたミスター・シン32歳だった。
中国人で福建省育ち、大学から日本へ渡り早稲田大学での専攻は
電気通信だった。
さっそくSFへ電話を入れた途中まで英語で話し、日本語へ切り替えた。
凄まじくフルエントリー(流暢な)日本語だった。
予め知らなかったら日本人のネイティブだと思っていたかもしれない。
普通、中国人の日本語はおなじみの「なになにあるよ」「なんとかあるね」
などおかしなものになるのがほとんどなのにそれが全くない。
敬語なども問題ない。
およそ30分かけて経歴、学歴、職歴をヒヤリングした。
ひとつ引っかかっていた事があった。彼は結婚して子供もいたんだ。
一方兼松の依頼は瀋陽への単身赴任なのだ。
日本の企業は家族持ちで家族がいても長期の単身赴任を強いる。
その日本企業の冷酷さはバングラディシュでよく見てきて知ってはいたが。
俺がシンに単身赴任が可能かどうか聞いた。
こんな凄まじいプロジェクトに携われるなんて男として幸せだと
思う、ぜひやってみたい仕事だと言った。と言ってくれた。
しかしシンはどうしても家族を連れて行きたいと言う。
後日兼松に打診したが軽く蹴られた。それをシンに伝えると
実は奥さんがこの仕事をシンが受けるのを反対しているという。
奥さんのお父さんは実は毛沢東の文化大革命で逮捕され
頭のてっぺんを丸められ赤く塗られ危険分子とみなされ
街中を引っ張りまわされたあげく処刑されたというのだ。
奥さんは二度とあんな国へ返りたくないし夫のシンが
中国へ行くなど絶対反対だと言うのだ。
さらに瀋陽は冬は大地が凍りつき氷点下40度にもなるという
極寒の地だ。
俺は兼松に人材は見つかったので面接のセッティングにNYと東京で
入っていた。困ったことになった。
しかしまさに地球レベルのスケール仕事に俺はエキサイトしていた、
燃えていた。
ビジネスってなんて面白いのだろうと。
続く・・・・・・・・