国際電話事業は交換機サーバーはニューヨーク、
電話回線はアメリカの会社、
顧客は東京及び日本全国とアメリカ本土、
請求データ蓄積はニューヨーク、
データは東京へ送り東京から請求書を発送、
クレジットカードの請求データは東京オフィス、
その請求データの銀行決算はロサンジェルス。
そのお金を日本へ送金。アメリカの経費はLAと東京と
その時に応じて支払い先に送金していた。
俺は日本とニューヨークとロサンジェルスを月に3回は行き来していた。
テクニカル部門とカスタマーサービス部門とも海をまたぐ仕事になっている。
俺の勤務パターンはNYだと朝9時に東京が23時、NY19時で東京が朝9時で
LAは時差3時間なのでまだ午後4時。まだまだビジネスアワー真っ盛りだ。
NYがそろそろ終わろうとしても今度は東京に指示を出してかかってくる電話を
受けていたらほとんど眠れない。
日本にいる時も午後23時にNYが午前9時でオフィスがオープン。
その3時間後の午前1時にLAが開く。
これで遂に昼も夜も仕事するはめになり睡眠は2時間を二回だけ取るのと
折り返し電話をもらって待っている間のオフィスの長椅子で電気をつけたままの睡眠だ。
食事と言えば仕事しながらが多いので片手で食べられるものばかりだった。
移動の飛行機は唯一邪魔されないで眠れる至福の時間だった。
あの頃は焼き魚と真っ白なご飯と味噌汁の朝ごはんとゆっくり風呂に入って
ゆっくりふとんに包まって眠るのが夢だった。
キャリア(アメリカの電話会社)への国別のレートはドル建て。
一方日本の顧客からの料金回収は円建て。特にこのレート設定には
俺は当時気軽に考えていた。
さてそれから一年後、日本は凄まじい円高を迎える。1ドル110円位から
一気に80円まで上がったのだ。
皆へ問題、これで俺は儲かったのか損したのか?
答えは大儲けだった。例えば10ドルのものをアメリカから買うのに今まで
1100円払っていたのが800円ですむようになったのだ。
約3割も利益率が上がったのだ。
この利益分は会社で吸収し、また値段をさらに値下げする事にした。
この頃の俺はおろかだった。この利益は俺の能力によるものではなかった。
偶然設定したドル円レートの為替変動で出た利益だ。
俺は調子に乗って円高の時、日本の現金をドルに変え、円安になると円を買って
利益をさらに出していった。
要するに為替ディーラーを自分の金でやり始めたのだ。
全ての会社の利益計画や経営をさらにこの円高が続くか悪くても現状維持と
相場を読んだのだ。
しかしドルは80ドルをピークに乱高下を繰り返しながら円安に進んで行った。
顧客からは円で回収するので利益幅はあっというまに縮小し一瞬で社員皆が血と汗で
稼いだ半年間の利益がすっ飛んでしまった。
調子に乗った俺の大失敗だった。
本業の堅実な国際ビジネスの中に為替賭博の要素を持ち込んで大損をしてしまった。
俺は本来酒も煙草もギャンブルもやらない男なのだがうっかり本業で博打をやって
しまった。
心気一転事業の建て直しを図った。
考えた末に決めたのは日本での顧客に対しての電話料金を円表示からドル表示に
変更する事にした。
為替決済は毎月月末のドル円為替相場のTTBとする。
(為替には円からドル、ドルから円でTTSとTTBという二通りの値段があるんだ)
日本の電話会社で初めてドルレート式の常識はずれの値段表示に
業界はひっくりかえった。
しかしこれでこのビジネスで為替リスクはほとんどなくなった。
但し、日本からアメリカのキャリアに支払うタイミングでは円からドルへの
変換になるので多少はリスクはあるがそれはなんとか吸収できるリスクだ。
しかし毎日為替の相場のレートと日本とアメリカの金利には目が離せなくなった。
この頃のレートは一日で10円動いたりするんだぜ。
まさに為替はディーラーのおもちゃだった。
おかげで日本とアメリカの経済評論ができるくらい経済通にはなれたが。
俺の事業への甘さが招いたとんでもない失敗だった。
ほんとばかだった。