アメリカの富豪連中でカーマニアはどの車に憧れるか分かるかい?
フェラーリ?ランボルギーニ?メルセデス・マイバッハ?
彼らに言わせるとこんなのはガキの車なんだそうだ。
日本人はほとんど耳にした事がないだろうが
「デューセンバーグ」 憧れるとしたらこの車しかないのだ。
1929年から1937年までたった8年の間に、僅か380台しか生産されなかった
ハンドメイドの超高級車。
アメリカ人にとっては、古きよき時代の代名詞ともいえるクルマなんだ。
『一番大きく、早くて、高価で、最高品質の車』をポリシーに作られた車なんだ。
ハリウッドでスターの証としてクラーク・ゲーブルやゲイリー・クーパー、
グレタ・ガルボ等が愛車としていた。
ハリウッドのチャイニーズ・シアター前のレッドカーペットに乗りつける車は
決まってデューセンバーグだ。
当時のエスタブリッシュメントや欧州の皇族たちにもファンは多かった。
さらに禁酒法の時代、マフィアのボスたちもこのステータスに憧れ
愛車にしていた。映画「ゴッドファーザー」にも見ることができる。
贅の限りを尽くした超高級車であるから、無意味なくらいデカくそして重い。
装飾品が満載。
まず、まともに走りを楽しむことはできないとすら言われていた。
しかし実際は『モデルJ』のエンジンは当時はレーシングカーにしかなかった
DOHCが採用され、給・排気ともに2つのバルブ(つまり1気筒あたり4つの
バルブ)を備えた排気量7リッター、265馬力を誇り、
3トンもある車体を最高時速192kmという高速で引っ張った。
このエンジンは加速力もすさまじく、停止状態から時速160kmに達するまで
わずか21秒しかかからなかったという。
今ではピンとこないかもしれないが当時の車は5馬力や10馬力が
当たり前の時代だったのだ。
まさに「モンスター」だったのだ。
DOHCや4バルブが装備されるなど当時のレベルからすれば脅威なのだ。
いいかい、1920年代の話なんだぜ。
デューセンバーグ社はエンジンとシャーシーのみを
顧客に販売し、顧客は自分の好みに合わせて、腕利きコーチビルダーに
ボディを贅を尽くしてハンドメイドさせ架装させて乗っていた。
そのため同じ車種といえど2台と同じデューセンバーグは存在しなかった。
そうして完成した車は現代の車には決して求め得ない神業の職人芸や
エレガントさや壮大さが息づいている。
内装の美しさはまさにため息ものだ。
ちなみに『モデルJ』の価格はシャーシーのみで8,500ドル
でボディまで含めると30,000ドル近くの
金が必要だった。
当時の代表的大衆車フォード・モデルAの価格が500ドルだった時代の話である。
1932年には『モデルJ』のエンジンにスーパーチャージャーを搭載し、
320馬力・最高時速208kmまで威力を高めた 『モデルSJ』が発売されたものの、
オーナーであるエレット・ロバン・コードの破産によって1937年にデューセンバーグは
その歴史に幕を降ろした。
しかしデューセンバーグはコレクターの手によって大切に親から子へ乗り継がれ
市場にたとえ出てもサザビーズやクリスティーズで2億や3億といった値段で取引される。
ニューヨークの犬のグレートデン連盟の会長がたまたま逢った時、デューセンバーグの
トレーナーを着ていたので声をかけると案の定オーナーであった。
好意で見せてもらう事ができた。
デカさと豪華さに圧倒されるが狂乱の1920代のアメリカにしばし思いを馳せる事ができた。
Uターンする時は反対車線も入れて4車線全部使っても切り返しが必要な位
ハンドルは切れない。
これを作った職人たちや最初のオーナーたちはとっくに鬼籍に入っているが
彼ら男たちの少年の様なやんちゃな夢はこの車に生きている。
メーターを見ているとこの車にふと呼吸を、鼓動を感じるのだ。
アメリカの古き映画の大物が登場するときには必ずデューセンバーグが登場する。
まさにチャップリンの時代なのだ。
日本人のハリウッド・スターのグレート・セッシュー事、早川雪州も
オーナーであり助手席の女性をドアを開けておろす時に自分の毛皮を
水溜りにひいて女性の靴が汚れないようにした。
まさに絵になる極限のリッチなレディーファースト光景だ。
アメリカのセレブなら誰でも知っている車を知っている日本人はほとんどいないのは
いったいなぜなんだろう。
デューセンバーグでプラザホテルに乗り付けてドアマンの驚く顔が見てみたいぜ。