巨星落つ
ロッキーさんが女性について
ロッキー青木さん10
ロッキー青木さん9
ロッキー青木8 第二の気球飛行計画は
ロッキー青木さん7
ロッキー青木さん6
ロッキー青木さんに久しぶりに逢った5
ロッキー青木さんに久しぶりに逢った4
ロッキー青木さんに久しぶりに逢った3
サーフィンに来ていた南房総の海から上がり友人の別荘の庭で頭を拭いていて携帯が鳴った。
着信番号通知不能と表示されている。アメリカから電話だった。
頭を拭いている手がとまった。
ロッキー青木さんが亡くなったとの知らせだった。
突然の知らせに心が嗚咽の悲鳴をあげた。
その場にしゃがみこんで地面の土を握り締める。
人の死がこうも俺の心を空虚ならしめるのを
はじめてあじわう。
いまだに思い出すのはロッキーさんの笑顔ばかり。
ニューヨークベニハナでドラマティックに初めて遭遇したあの夜。
何度も何度もベニハナのバーに通い詰めて閉店まで話し込んだ温かい笑顔。
プラザホテルでの白血病のイヤー・オブ・ザ・マンに選ばれたパーティー。
ライトを浴びながら椅子に座っている俺を指差して笑ってくれた笑顔。
セントラルパークで屋外オペラに呼んでもらい遅れた俺のためにロッキーさんの
となりの席を取っておいてくれた。
俺が現れると英文台本を渡してくれて「今ここだよ」って指差してくれた。
クライマックスでは舞台を目に涙をためながら微笑んでいたあの横顔。
東京のホテルオークラのロビーで待ち合わせしたした時、遠くから
俺を指差して手をふってくれた時の笑顔。
一緒にレストランのカメリアに入る時に入り口のロッキーさんが
「二人ね」と言う。
支配人がロッキーさんのアフロぎみのヘアーと
ジンギスカンひげに怪訝そうな顔をしていた。
「できれば遠慮いただきたいのですが」と喉まででかかっているのが
俺にも伝わって来るのだ。
この支配人は目の前のこの男がアメリカのレストラン王だと知ったら
腰を抜かすかななどと想像して楽しんでいた。
支配人の失礼ぎみな態度にも全く気にせずにロッキーさんは
地図を広げて大好きな大陸横断レースの話を溶けてしまそうな笑顔で夢中に話す。
実業界で大成功を収め、アメリカで最も有名な日本人と言われ、ギネスブックに
載る世界的冒険家が目の前の少年のような男なのだった。
今だから話すがロッキーさんの話だと1979年のモーターボートレースの大事故の折、
大量に受けた輸血で肝炎に感染していた。
また事故の後遺症で夜中に突然のたうち回るほどの痛みが走るので
毎日痛み止めの薬を飲んでいた。
今回の癌はその肝炎によるものだろう。
小野恵子さんと言う最高の伴侶を得たのもつかの間、
ロッキーさんは旅立ってしまった。
最後に逢ったのが数年前の2月だった。
その時の写真がこれだ。
人生やればこうも劇的に生きる事ができるのだというのを
身をもって見せてくれた男だった。
ロッキーさん、あなたを連れ戻せるものなら連れ戻したい。
引き戻せるものなら引き戻したい。
人生の素晴らしさ、豪快さを、そして儚さを教えてくれた男。
遂に人生の極上の杯から口をはなしたのですね。
さらばです。
ロッキー青木さん!
ロッキー青木さんがいつも言っていた。
女性には
自分に力をくれる女性と
自分から力を奪う女性がいると。
「心配性」で「マイナス思考」で「焼きもち焼の女性」とは
絶対結婚するなよって。
「心配」と「不安」と「焼きもち」の波長は男を不幸にするって。
君が飛び上がろうとする翼に常に石をのせる女性なんだって。
毎朝、「さあ、今日も素晴らしい一日が始まる!」って言う
めちゃめちゃプラス思考な女性を伴侶に選べたら最高の宝だと
思って大切にしろ。ぜったいよその男に渡すな。
ってさ。
9よりの続き
中国の国境をかすめながらソビエト領内を気球で飛ぶという
計画のコースが記された地図をロッキーさんが何枚も
NYベニハナのバーのはしっこのほうのテーブルで見せてくれた。
計画実行の季節と日時の検討に入っていた。
そのときロッキーさんの手帳にはスピードボートや
車の長距離大陸横断レースの予定がびっしりだった。
俺はその手帳を見せてもらった。するとロッキーさんが
「こんな事ばっかりやって遊んでいるなんて思わないでくれよな。
俺が目だってマスコミの注目を集めればそれでベニハナレストランの
名前が世に知れていく。広告費に換算すると何十億円分の広告費に
相当するんだからな」って恥ずかしそうに言うんだ。
そしていつもアビレックスの皮のフライトジャケット(俺もたくさん持っている
最高品質の物)のポケットから出来上がったばかりの
ウイングのマークのバッジを取り出して見せてくれた。
「俺はウイングマークがほんとに好きなんだ」と言いながら
そのジャケットを脱いでジャケットの胸の部分に付けようとするんだ。
皮が分厚くてなかなか穴が開かなくてバッジをつけるのに
苦労するのだが、その一生懸命に付けようとする仕草がもう50歳を
越えているというのにまるで少年の様なのだ。
これの人がアメリカでレストラン王と呼ばれたロッキー青木なのかと
感慨深かった。
俺はこの計画のプレゼン資料を作ってきたのでそれを説明した。
英語の部分を添削してもらい逆に日本語が怪しいロッキーさんの
日本語を俺が直した。
ビクターの社長がロッキーさんと懇意だったのでまず冠スポンサーで
問題はなかった。
ビクターが出てくれば当然、大手の企業は関心を示すはずで
かつてのNY駅伝マラソン(コンテンツ参照)のような失敗は
許されない。
アメリカの広告代理店のヤング・アンド・ルビカム社やマッキャン・エリクソン社に話してみたいとロッキーさんは言った。
日本では電通、博報堂、第一企画などのいわいる広告代理店は
学生の人気企業ランキングの上位を占めまた女性にも人気が
あるが、アメリカでは全く事情が違う。
IVYリーグなどの主要大学やMBAにとっても広告代理店は最も
人気が低く、成績も最下位の者がしょうがなく行く世界と認識されている。
広告業界の企業担当の営業スタッフをアカウント・エキゼクティブ(AC)と呼ぶ。
しかし当時景気の良かった日本企業をスポンサーにつけるにはやはり
昔いた電通が一番だと思った。そしてNY駅伝マラソンのチーフに
内々で話を持ちかけてみた。
反応は大きかった。すぐにいくつかの企業に打診してみると言ってくれた。
しかしその頃、話の上辺だけ聞かされてつんぼ桟敷に置かれたアメリカの代理店がへそを曲げ始めた。
そもそもマッキャンエリクソンもヤング・アンド・ルビカムも博報堂と電通と
提携を始めていた頃だった。
その提携を根本から揺るがしかねないトラブルにやがて発展していくのだ。
続く・・・・・・・・

ソビエト上空気球横断プロジェクトのユニフォーム

俺にくれたロッキー青木さんのサイン ユニフォームに俺にだけ書いてくれたんだ
ロッキー青木さん8からの続き・・・・
モスクワから気球で飛立ち、シベリアの上空を飛んで
日本へ着陸する計画だった。
当時はバリバリの鉄のカーテンの向こう側。
ソビエト連邦だ。そして大韓航空機の民間機を
領空侵犯の疑いで撃墜する国だ。
まずそんな挑戦にソビエト政府が許可するわけがないし
また例え許可されたとしても命令指揮系統の不備から
領空侵犯機と判断され撃墜される危険は大いにある。
ロッキーさんの話を聞いてみることにした。
当時書記長は新鋭のゴルバチョフでありかなりペレストロイカが
進んでいた。
そしてゴルバチョフの政権安定の基盤は西側との和平にあった。
SS20のミサイル削減交渉をレーガンとグリーンランドで行った時に交渉後の記者会見で合意点がなかったと発表された。
一見交渉は決裂したように見えたが決裂の意味が違ったのだ。
アメリカはもちろん大幅な削減案を提案したのに対し
ゴルバチョフは全面撤廃を提案してきたのだ。
これにアメリカは仰天し、そしてそれに応えるオプションを用意して
いなかったのだ。
それくらい西側への接近は顕著だった。
そしてイギリスのバージングループの創立者のリチャード・ブランソンは
ゴルバチョフ書記長と懇意だった。
そしてブランソンはロッキーさんと友人の間柄なのだ。
ブランソンの仲介で必ずゴルバチョフからの許可は取り付ける事が
できるというのだ。
そして許可がでればコースを特定してコース近辺の基地に
気球通過の御達しが出れば危険は無いという。
ロッキーさんが拡げた地図には赤鉛筆で無数の書き込みがなされている。
しかし俺はそのコースを見てやや心配になった。コースが南側すぎるのだ。
300キロ余裕を取ってあるとはいえ、もし風で南に流されたら
中国の国境を越える可能性があるのだ。
前門の虎、後門の狼状態だ。
「ロッキーさんソビエトから中国に空から侵入するってへたすると
ソ連と中国の戦争の火種になりませんか。これやばいと思います」
と言った。
ロッキーさんは「中国には中国に別なルートで話をつけようと思うってるんだ。むしろ俺はこの気球は平和の使者となれるような気がするんだ。」
という。
俺は心配ながらもそれ以上は言えなかった。
ビクターの社長と懇意なロッキーさんが頼めばスポンサーには着いてくれるらしい。
さらに計画発表時に記者会見でモスクワ市民に向けて二つの約束を
する。ひとつは出発時のイベントを日本とアメリカとソ連と中国の共同平和イベントとすること。
ふたつはモスクワにレストラン ベニハナ モスクワ店をオープンする事。
壮大な計画だった。俺はこれが実現したら世界情勢に与える影響はすごいものになると思った。
国境を越えた上空通過の打ち合わせは新たな対話の機会を作る。
そしてその一翼を担えるのならこんな
嬉しいことはないと思った。
なによりもあのロッキーさんが俺にこの計画を話してくれたのが嬉しかった。
続く・・・・・

ロッキー青木さんに逢った時、話があるんだと言われた。
ロッキー青木さんをもう一度紹介しよう。
昭和13年10月9日東京生れ。
慶応大学1年の昭和34年、
全日本学生レスリング代表団のメンバーとして渡米。
ニューヨークに単身残り、ハーレム街でアイスクリーム売りなどを
しながら大学を卒業。
卒業時までに1万ドルを貯め、25才でニューヨーク5番街にレストラン「ベニハナ・オブ・トウキョウ」を開店。
持ち前のチャレンジ精神で事業を拡大。現在、全米70店、日本25店、売上約300億円の実業家。資産3億ドルといわれ、全米ビリオネア(億万長者)リストの常連。
アメリカンドリームの体現者と同時に、“冒険野郎”としても有名で、昭和56年秋、初の気球による太平洋横断に挑戦。
ロッキー青木ら日米の4人を乗せ三重県の長島温泉を離陸した
ヘリウムガス気球「ダブルイーグルⅤ号」が
サンフランシスコ北方の丘陵地帯に着陸、太平洋初横断に成功した。
84時間31分の飛行で、飛んだ距離も9600キロを超え、ガス気球としては世界記録。
ギネスブックにも載り、「ダブルイーグルV号」はワシントンの
スミソニアン博物館に展示されている。
パワーボートやカーレースにも挑戦し、何度か瀕死の重傷も負う。
「実はまだ誰にも話していないのだがもう一度気球で飛んでみたい
んだ。」と言う。「日本からシベリア上空を飛びモスクワへ着く
コースなんだ。」俺は驚いた。
当時ソビエトは健在でソビエトは大韓航空機を撃墜したばかり
の頃だ。
今とは比較にならない位きな臭い国際情勢であった。
俺は言った。「ロッキーさん、絶対止めてください。撃墜されても
いいんですか」
「いや、渡嘉敷聞いてくれ。決して無謀ではないんだ。」
話を聞くとロッキーさんの構想がやや見えてきた。
レストラン紅花を以前ロンドンに開業した事があったが
イギリス人はビアホールはやや賑わうものの基本的に
外食をする習慣があまりないらしい。
そこの読みがあまく結局撤退を余儀なくされた苦い過去があった。
しかしロッキーさんはこの雪辱を果たしたいと常に考えていた。
ロッキーさんはさらにあの共産主義国の総本山のソビエトの
首都モスクワに紅花を出店する事をたくらみそれをいつか
実行してやろうと思っていた。
ロッキーさんはパブリシティーの名手である。パブリシティーとは
マスコミに記事で取り上げてもらう事で莫大な宣伝効果を狙う
事だ。ベニハナが最初に成功できたのもニューヨークタイムスの
有名なコラムニストに資料を送り続けとにかく一度レストランを
取材して欲しいと頼み続けた。
1965年のある日、ニューヨークに大停電が起きた。
高層ビルのエレベーターが全てストップしてオフィスの人たちが
ランチを食べに買いに外に出られなくなってしまったのだ。
そこでロッキーさんはオフィスの高層階の会社にステーキの
ケイタリングができます。注文していただけるのなら窓から
ロープをたらしてくださいと言った。
すぐに焼きあがったステーキをお皿にのせてバスケットに入れ
そのロープにくくりつけた。
この様子に周りのビルや道路で大勢の人だかりができた。
そしてロッキーさんはテレビ局とコラムニストに電話を入れてこの様子を
取材してみないかと連絡したのだ。
すぐにコラムニストはカメラマンを連れ現場に着いた。
すぐに撮影が始まった。テレビカメラとスティールカメラが何台も取材している。
そのときロッキーさん上で引き上げているロープをわざと揺らしステーキだけを落下させた。
マスコミが一斉に撮影した。
翌日のテレビニュースとニューヨークタイムスにヒラヒラと空を落ちる
ステーキの映像と写真が飾った。
そしてレストランベニハナの名前も載った。
そしてその日からベニハナは連日満員満員で外にとなりのブロックまで
続く行列ができた。
こんなエピソードをロッキーさんは持っていた。
今回のソビエト気球横断計画は一体どういうものか・・・・
続く・・・・・・
ある日、ロッキーさんに頼みごとがあるからと言われベニハナに向かった。
紹介されたのは白人の若い男。
ロッキーさんの話によるとこの男は立った今カナダからアメリカへ不法入国してきたらしい。
よく見ると手足が細かい傷だらけだ。
彼の仕事はサーカスのオートバ乗りで、ジャンプしたオートバイで横に並べたバスを飛び越える世界記録保持者というのだ。
彼の夢は世界中でその技を披露する事。ところが彼の父親は実は列車強盗の罪で服役中。
そしてカナダの警察は彼のオートバイの特技で父親を脱走させるかもしれないという事で
徹底的にマークされているらしい。国外に旅行すら難しい。
そこで遂に夜、国境付近の崖からオートバイでジャンプしなんとパラシュートで着地して
そこからアメリカへ密入国したらしい。
こんな技もショーでは今まで何度もやったらしい。
またただバスを飛び越えるだけでなく爆発炎上しているバスを飛び越えるという。
その飛び越えている瞬間の写真も見せてもらった。
ロッキーさんの頼みとはパスポートとビザはロッキーさんの方で
面倒見るから俺にそのスタントショーを日本でやれるように
あたって見てくれないかという事だった。
その晩、俺のマンションに彼を泊めてやったのだがあの温厚そうなカナダ政府も
かなりきつい締め付けをする事が肌でわかった。
俺もかなりバイクは詳しいが彼の運転テクニックはハンパじゃなかった。
夜も更けるのも忘れバイクの話で盛り上がった。
すぐに日本でのイベントプロデューサーに電話をして彼の事を話してやった。
でもこんな密入国した人間が果たして日本に入国できるのだろうか。
半年後、偶然見たスポーツ新聞に彼が出演している広告がでていたのを見つけた時、
何か嬉しかったな。
しかしロッキーさん絡みの話はいつも何か面白い。
ニューヨークでは市の計らいで無料のコンサートやオペラが
セントラルパークの広場でよく開かれる。
それもけっこうな大物がくるんだ。ニューヨークフィルのコンサート、
チェリストのヨーヨーマ等は圧巻だった。
昼間に入場券を配るのでそれをもらって夕方から行くんだ。
ある日ロッキーさんからオペラに行こうと誘われた。
夕方会場で待ち合わせしたら既にロッキーさんは先に来ていて
俺のために席を確保していてくれて俺の姿をみつけたら手を振って
呼んでくれた。
題目は「マダムバタフライ」蝶々夫人だ。ロッキーさんが俺に台本をくれた。
オペラはイタリア語ですすめられているが台本は英語。
ロッキーさんはオペラが大好きでカメラと双眼鏡を交互に見てさらに台本で
チェックしながら時々俺に話しかける。
野外オペラでも凄まじい迫力だ。空は暗くどんよりしてきた。
今にも降り出しそうだ。
ストーリーは有名なのでピンカートンらしきもすぐに分かる。
物語が佳境に入ってきてオーケストラが音響がピークに達したその時、
なんと雷鳴が轟き稲妻が光った。それも空が割れてしまうのでなないかという
程の光と音。セントラルパークは日比谷公園の15倍の広さがあるが
その周りを高いビルが取り囲んでいる。
音はそのビル街に反射して反響しているのだ。
オペラのその時の場面はちょうど蝶々夫人がピンカートンの裏切りを知るところ。
なんと偶然の自然現象がオペラの場面とぴったり一致しているのだ。
こんな偶然があるだろうか。感動の嵐だった。
しかし数分後ついには天に穴があいたような雨が降り注いだ。
ズブ濡れになって演じていた俳優も観客もついには限界で
オペラの中止が発表された。
今まで多くの舞台、ブロードウェイは見てきたけどこれほど思い出深いオペラは
なかった。
ロッキーさんに手伝って欲しい事があると言われた。
全米白血病協会の寄付を企業から集めて欲しいと言われた。
アメリカでは白血病への骨髄バンク活動が盛んでその募金集めに
ロッキーさんは奔走していたのだ。理由を聞くと大事な女性をかつて
白血病でなくした事があったらしい。
私は可能なかぎり寄付を日本企業に募った。
そんな甲斐あってロッキーさんはその年の功績が認められ
白血病協会の「マンオブザイヤー」に選ばれた。
その表彰式にぜひ来て欲しいと言われた。
受賞パーティーはあのプラザホテル。映画「華麗なるギャツビー」や「クロコダイル
ダンディー」「ホームアローン」「ケインとアベル」で登場する一台クラシックホテルだ。
当日タキシードブラックタイで向かった会場には去年のイヤーオブザマンがいた。
なんとCNNの創業者テッドタナーがいるではないか。ロッキーさんから紹介を受けたタナーさんと話がはずみ廊下でも話す事ができた。
もう感激でめまいがしそうだった。
テッドタナー
父親が事業に失敗しピストル自殺を遂げている。ゼロから事業を立ち上げ
やがてはニュース専門テレビ局をアトランタに設立し世界中にCNNの名前を
刻み込んだのは84年のスペースシャトル墜落事故の映像、湾岸戦争で名をあげていく。
ジェーンフォンダの旦那でもある。
オーストラリアの企業乗っ取り王としてテッドと並んでマスコミの世界に君臨する冷血な事業家。
僕は起業する前に何冊も彼の本を読んでいたのでその彼が目に前にいることに
感動でやっぱりめまいがした。
ニューヨーク。なんてすごい街なんだ。
レストランのベニハナオブニューヨークに何度も何度も通った。
実は純粋にベニハナの料理はほんとに大好きで、日本出張から帰った時も
必ず最初の食事はベニハナって決めているんだ。
ある日、クラシックなロールスロイスが店の前に停まっていた。
何度も雑誌で見た事があるロッキーさんの車に違いない。
「逢える!ロッキー青木さんに逢える!」
店に入ったらいた!クロークの電話で話している後ろ姿は正に
ロッキーさんだ!
電話が終わるのを待って話しかけた。「ロッキーさんの本全て読みました。
こうやってニューヨークに来たのもロッキーさんのおかげです」と。
ロッキーさんは少年の様な笑顔で手を差し出してくれて握手してくれた
凄まじい固いグリップだった。
バーに連れて行ってくれていろいろ話を聞いてもらえた。
今までやってきたこと。今何の仕事してるか。将来の夢は。
夢のような時間だった。
店の店長やスタッフにも紹介してもらえた。
英語のロッキーさんの本を頂きサインしてもらえた。
「これからもいつでも遊びにきなさい。」って自宅の住所と電話番号も名刺に
書いてくれた。これは今でも僕の宝物。
その日はそのままオフィスに帰っても興奮さめやらず。
一人叫んでしまった。忘れられない夜だった。
その日からベニハナへよく通いロッキーさんに話をしてもらうことが
多くなった。ビジネスとは、アメリカとは、本にも出ていないロッキーさんの
結婚の失敗の話、特に驚いたのが「ゴールデンタッチの男」と言われ
手がける事業は全て成功していると思っていたのだが実は何度も失敗しているらしい。
ベニハナステーキの冷凍食品販売、プレイボーーイに次ぐ男性誌の出版、
アトランティックシティでのカジノの経営。それらは頓挫したらしい。
初めて聞く話だった。
それとビジネスの秘訣を教わった。
1 夢を持つ
2 徹底的に調査し準備する
3 命がけで実行する
実に簡単だが一番大切な事だと教わった。もうアメリカが長いせいか話の佳境に
なると全て英語になってしまう。でもはっきりとキャッチできた。