事業で成功を収めたロッキーさんはやがて冒険の世界で名を馳せる。
全米バックギャモンチャンピオンをかわぎりに、車のレース、モーターボートの記録に
挑戦し記録を打ちたてる。
日本とアメリカを熱気球で無着陸で横断する計画を実行した。
気球と言っても成層圏ぎりぎりをジェット気流に乗って飛び酸素はボンベで吸う。
氷点下20度の世界。装置は衛星ナビゲーション付き。
最後はついにメリカの森に墜落するも3人は軽傷で済んだ。
記録はギネスブックに載り、気球のゴンドラはワシントンのスミソニアン博物館に
展示されている。
ここからは僕が直接ロッキーさんに聞いた話。
スピード大型モータボートでは波に激突して船体は木っ端微塵。
ロッキーさんは海上に投げ出された。全身27ケ所を骨折し流れ出した血液は
自分の周りの海面をみるみる間に真っ赤に染めていったそうです。
体中の傷を見せてくれた。膝がこれ以上曲がらないといって見せてくれた。
ロッキーさんがすぐに心配したのは血の匂いにつられた鮫に襲われる事。
鮫が襲ってきても戦えるように準備したそうだ。
すぐに救命ボートが救出にきたのだがいかんせんあまりにも重傷すぎて
ボートに引き上げる事ができない。結局網を使って引き上げたそう。
ラッキーだったのはすぐ近くに陸軍病院があったこと。
手術中二回も心臓が停まったらしい。20日間も意識が戻らなかったらしい。
意識が戻ったところでロッキーさん指定の病院に転院。
大怪我がしょっちゅうのロッキーさんには指定の病院があって血液や予め造ってある
骨の部品が修理工場のようにストックされているらしい。
大富豪であり世界的冒険家であるロッキーさんには本当に憧れていた僕は
ニューヨークで起業した後、逢っておきたい男だった。
日本では割と知名度はないがかつてアメリカで一番有名な日本人はといえば
必ずロッキー青木さんの名前があがった。
レストラン王 ロッキー青木さんである。モデルのデボン青木の父親でもある。
大学時代、レスリングの日本代表団として渡米したロッキーさんは大会に優勝した後、
アメリカという国に感激した彼は自分だけアメリカに残る事にした。
レストランの皿洗いと駐車場で働きながらこつこつと資金を貯めていった。
やがてアイスクリームの屋台の車を借りる事ができた。しかしマンハッタンはすでに
アイスクリーム屋台は過当競争でどこにも彼の出店できるスペースはない。
彼が目をつけた地域があった。ハーレムである。当時は今よりもさらに治安が悪く
どの屋台も近づく事はしなかった地域だ。
彼は日本から小さな紙でできた番傘と日本の童謡のレコードを取り寄せ、傘をアイスにたて
客寄せにスピーカーで日本の童謡をかけて黒人の子供の気を引くことに成功しかなりの
売上を立てる事ができた。
毎日の売上を毎日銀行へ預けこつこつと貯めた資金で次なる野望、レストランの開店に向かっていた。夜はNYU(ニューヨーク大学)のレストラン科で学んだ。
その勤勉な姿に感動した銀行が融資をしていよいよレストランを立ち上げることになった。
アメリカ人の好きな食べ物ランキングのBEST3はビーフ, チキン、海老。ならばそれを全部やろうとした。それまでのレストランは厨房で調理したものをお客のテーブルに運ぶのが
あたりまえ。それを鉄板焼としてお客の目の前で調理する。
それも道具を西部劇のガンマンのように全部ベルトにさし、包丁をくるくる回す調理ショーにする。内装は日本の解体した合唱造りの古い家を解体して組み立てる。
このスタイルがアメリカで大ヒット。やがて全米126店舗を数える大チェーンになり
大富豪になった。正にアメリカンドリームを地で行く男だった。