ロッキー青木さんに逢った時、話があるんだと言われた。
ロッキー青木さんをもう一度紹介しよう。
昭和13年10月9日東京生れ。
慶応大学1年の昭和34年、
全日本学生レスリング代表団のメンバーとして渡米。
ニューヨークに単身残り、ハーレム街でアイスクリーム売りなどを
しながら大学を卒業。
卒業時までに1万ドルを貯め、25才でニューヨーク5番街にレストラン「ベニハナ・オブ・トウキョウ」を開店。
持ち前のチャレンジ精神で事業を拡大。現在、全米70店、日本25店、売上約300億円の実業家。資産3億ドルといわれ、全米ビリオネア(億万長者)リストの常連。
アメリカンドリームの体現者と同時に、“冒険野郎”としても有名で、昭和56年秋、初の気球による太平洋横断に挑戦。
ロッキー青木ら日米の4人を乗せ三重県の長島温泉を離陸した
ヘリウムガス気球「ダブルイーグルⅤ号」が
サンフランシスコ北方の丘陵地帯に着陸、太平洋初横断に成功した。
84時間31分の飛行で、飛んだ距離も9600キロを超え、ガス気球としては世界記録。
ギネスブックにも載り、「ダブルイーグルV号」はワシントンの
スミソニアン博物館に展示されている。
パワーボートやカーレースにも挑戦し、何度か瀕死の重傷も負う。
「実はまだ誰にも話していないのだがもう一度気球で飛んでみたい
んだ。」と言う。「日本からシベリア上空を飛びモスクワへ着く
コースなんだ。」俺は驚いた。
当時ソビエトは健在でソビエトは大韓航空機を撃墜したばかり
の頃だ。
今とは比較にならない位きな臭い国際情勢であった。
俺は言った。「ロッキーさん、絶対止めてください。撃墜されても
いいんですか」
「いや、渡嘉敷聞いてくれ。決して無謀ではないんだ。」
話を聞くとロッキーさんの構想がやや見えてきた。
レストラン紅花を以前ロンドンに開業した事があったが
イギリス人はビアホールはやや賑わうものの基本的に
外食をする習慣があまりないらしい。
そこの読みがあまく結局撤退を余儀なくされた苦い過去があった。
しかしロッキーさんはこの雪辱を果たしたいと常に考えていた。
ロッキーさんはさらにあの共産主義国の総本山のソビエトの
首都モスクワに紅花を出店する事をたくらみそれをいつか
実行してやろうと思っていた。
ロッキーさんはパブリシティーの名手である。パブリシティーとは
マスコミに記事で取り上げてもらう事で莫大な宣伝効果を狙う
事だ。ベニハナが最初に成功できたのもニューヨークタイムスの
有名なコラムニストに資料を送り続けとにかく一度レストランを
取材して欲しいと頼み続けた。
1965年のある日、ニューヨークに大停電が起きた。
高層ビルのエレベーターが全てストップしてオフィスの人たちが
ランチを食べに買いに外に出られなくなってしまったのだ。
そこでロッキーさんはオフィスの高層階の会社にステーキの
ケイタリングができます。注文していただけるのなら窓から
ロープをたらしてくださいと言った。
すぐに焼きあがったステーキをお皿にのせてバスケットに入れ
そのロープにくくりつけた。
この様子に周りのビルや道路で大勢の人だかりができた。
そしてロッキーさんはテレビ局とコラムニストに電話を入れてこの様子を
取材してみないかと連絡したのだ。
すぐにコラムニストはカメラマンを連れ現場に着いた。
すぐに撮影が始まった。テレビカメラとスティールカメラが何台も取材している。
そのときロッキーさん上で引き上げているロープをわざと揺らしステーキだけを落下させた。
マスコミが一斉に撮影した。
翌日のテレビニュースとニューヨークタイムスにヒラヒラと空を落ちる
ステーキの映像と写真が飾った。
そしてレストランベニハナの名前も載った。
そしてその日からベニハナは連日満員満員で外にとなりのブロックまで
続く行列ができた。
こんなエピソードをロッキーさんは持っていた。
今回のソビエト気球横断計画は一体どういうものか・・・・
続く・・・・・・