当時アフリカのリビアは世界中の企業にとって大きなマーケットのひとつだった。
この国はテロリストの支援国でありリーダーのカダフィ大佐はレーガン大統領から
かなり疎まれていた。
アメリカはテロでも特に子供の命には敏感だ。
ヨーロッパの空港でテロがありアメリカ人の子供が死亡した事があった。
そのテロリストのバックにカダフィ大佐がいる証拠を掴んだアメリカは
第7艦隊を中東に送り込みカダフィ大佐の住居をめちゃめちゃに爆撃した。
この爆撃でカダフィ夫人が死亡した。
アメリカは子供一人の命で艦隊を出動させるのだ。
通常貿易もビジネスも会話も書類もメールも全て英語と言うのが国際ルールだ。
第一次大戦の頃とか国際連盟の頃はかつてフランス語が国際語になっていた事もあるが
その後の大英帝国の世界への派遣が及ぶと英語が完全なる国際語となった。
学術の世界で死語となっているラテン語を使用するのは各国に平等にするためだ。
そのリビアに輸出するのに各企業が抱えるひとつの問題が発生した。
輸出書類の全てをアラビア語で作成しないとリビアへの輸入を許可しないと発表したのだ。
これには世界中が驚愕した。
しかしこの情報を俺は3ケ月前にパリのリビア人ビジネスマンから聞いていた。
NYすぐにアラビア語と英語に堪能の人間を探した。
タイミングがいいことに仲間と会社を起こしていたが仲間割れして
転職を考えていたモハマドと言う青年を引き抜いた。
俺はアラビア語のタイプライターを探した。それも電動が欲しかった。
あらゆる伝手を探って探したがなかなか見つからない。
モハマドにエジプトに電話してもらいやっと見つけ
アラビア圏にフライトしている日航のステュワーデスに頼んで
運んでもらった。
これで準備はOKだ。あとはリビアへ輸出している企業のリストを入手し片っ端から
営業かけるだけだ。さらに付加サービスとして商工会議所の輸出許可証も代行で取得し
さらにアラビア語に翻訳する事にした。
マーケットとしては大した事はないが面白みは十分あった。
ただモハマドは例によってイスラム教徒なので一日五回のお祈りをどんなに
忙しくても欠かさないのでほんとに困ったし
エジプトの今週のベスト10の曲をラジカセでかけるのだがアラビア語の曲は
全部同じに聞こえるのだ。
他の社員の手前ほんとに困った。
今モハマドは日本人女性と結婚して子宝に恵まれ幸せに暮らしている。
さらにテンポラリーだが面白いオーファーが欧州からあった。
輸出企業に営業窓口ができたのならその営業ラインアップに
船舶の重油を加えてもらえないかという話だ。
販売する相手は海運会社だ。燃料を船に給油する場所はスエズだ。
この運河が出来る前は全ての欧州からの船はアフリカの最南端の喜望峰を
周って行くしかなかった。
スエズ運河ができてからは欧州アジア間の貿易には欠かせないルートなんだ。
しかしこのスエズ運河はいつも渋滞しているし洋上で運河通航の順番をじっと何日も
待つ事もある。
軍艦は国籍を問わず国際条約で特別扱いされている。
狭い運河の中では追い越しができないため、軍艦は緊急時の迅速な活動を考慮して船団(コンボイ)の特等席である最前列に並ぶ。
そうすると一般船舶はどんどん後回しになる。
この運河の順番待ちの間に燃料を補給する。その補給の商談と予約を俺の会社が
ニューヨークと東京で行うというものだ。
重油のガロン数、グレード、給油時期、給油ポンプ種類を予め船がスエズに到着する前に
交渉するんだ。
運河通航のスピードは7ノット(時速13キロ)、前後の船の間隔は1マイル(約1.8キロ)程度を維持して航行する。また狭い運河では追い越しができない。
スケジュール通りに航行しているかどうかは一定間隔に設けられた信号所が
チェックしている。
運河に入るまでは運河を通航する船は、予めスエズ運河管理局によって定めれれた時間までに、指定集合場所にアンカーを下ろす。
その後、管理局によって運河を航行する順番が決められ、各船へコンボイ名とコンボイ内での順番、そして出発時間が無線連絡される。
その待ち時間を利用して給油するのだ。それでも半日かかる時もある。
出発時間がくるとこのあたりの地理に詳しい水先人(パイロット)が乗船してきて、
アンカーを巻き上げていよいよ運河へ入る。ひとつのコンボイは10隻から15隻の船団で、行儀良く並んで通航スタートだ。
タップリと重油を飲み込んだ船の喫水線はぐっと下がってしまう。しかし運河の深さは19mにさらに掘り下げたのでなんとか通過できるようになった。以前は燃料の積み過ぎに用心して
計算しないとならなかった。
注文を受けた内容をロンドンの石油会社にテレックスを入れる。するとそこから
スエズの給油所に指示が入る。
こんな国際ビジネスの入門篇が両方とも大して儲からなかったが当時は楽しかった。
俺は20代でまだまだひょっこだったなあ。