サーフィンに来ていた南房総の海から上がり友人の別荘の庭で頭を拭いていて携帯が鳴った。
着信番号通知不能と表示されている。アメリカから電話だった。
頭を拭いている手がとまった。
ロッキー青木さんが亡くなったとの知らせだった。
突然の知らせに心が嗚咽の悲鳴をあげた。
その場にしゃがみこんで地面の土を握り締める。
人の死がこうも俺の心を空虚ならしめるのを
はじめてあじわう。
いまだに思い出すのはロッキーさんの笑顔ばかり。
ニューヨークベニハナでドラマティックに初めて遭遇したあの夜。
何度も何度もベニハナのバーに通い詰めて閉店まで話し込んだ温かい笑顔。
プラザホテルでの白血病のイヤー・オブ・ザ・マンに選ばれたパーティー。
ライトを浴びながら椅子に座っている俺を指差して笑ってくれた笑顔。
セントラルパークで屋外オペラに呼んでもらい遅れた俺のためにロッキーさんの
となりの席を取っておいてくれた。
俺が現れると英文台本を渡してくれて「今ここだよ」って指差してくれた。
クライマックスでは舞台を目に涙をためながら微笑んでいたあの横顔。
東京のホテルオークラのロビーで待ち合わせしたした時、遠くから
俺を指差して手をふってくれた時の笑顔。
一緒にレストランのカメリアに入る時に入り口のロッキーさんが
「二人ね」と言う。
支配人がロッキーさんのアフロぎみのヘアーと
ジンギスカンひげに怪訝そうな顔をしていた。
「できれば遠慮いただきたいのですが」と喉まででかかっているのが
俺にも伝わって来るのだ。
この支配人は目の前のこの男がアメリカのレストラン王だと知ったら
腰を抜かすかななどと想像して楽しんでいた。
支配人の失礼ぎみな態度にも全く気にせずにロッキーさんは
地図を広げて大好きな大陸横断レースの話を溶けてしまそうな笑顔で夢中に話す。
実業界で大成功を収め、アメリカで最も有名な日本人と言われ、ギネスブックに
載る世界的冒険家が目の前の少年のような男なのだった。
今だから話すがロッキーさんの話だと1979年のモーターボートレースの大事故の折、
大量に受けた輸血で肝炎に感染していた。
また事故の後遺症で夜中に突然のたうち回るほどの痛みが走るので
毎日痛み止めの薬を飲んでいた。
今回の癌はその肝炎によるものだろう。
小野恵子さんと言う最高の伴侶を得たのもつかの間、
ロッキーさんは旅立ってしまった。
最後に逢ったのが数年前の2月だった。
その時の写真がこれだ。
人生やればこうも劇的に生きる事ができるのだというのを
身をもって見せてくれた男だった。
ロッキーさん、あなたを連れ戻せるものなら連れ戻したい。
引き戻せるものなら引き戻したい。
人生の素晴らしさ、豪快さを、そして儚さを教えてくれた男。
遂に人生の極上の杯から口をはなしたのですね。
さらばです。
ロッキー青木さん!