ビルの隙間から見える夕日はブラックとオレンジの見事なコレボレーションを描く。
美しさで泣きそうになるぜ。
初めてK子に逢ったのはあるパーティーで共通の知人を通してだった。
俺より年下なのにマンハッタンでは彼女がバリバリの先輩。
コロンビア大学で助手を勤めていた。
天は二物も三物も与えるとはこの事だった。
長い手足、くりっとした目、飛び切り細いウェストは国体にも出場した
卓球のおかげと言う。
ニューヨークの女性にもちと嫌気がさしていたときの一筋の光のようだった。
飛びぬけた才能を持ちながら実に健気で優しいのだ。
知人の女性と3人で共にしていた食事もいつしか二人だけになっていった。
しかし俺は彼女に対し確かに好意を感じていたのだ。
しかし当時の俺は強烈なコンプレックスをも同時に感じていた。
彼女のアメリカ文化と英語に関する知識は実に途方もなく
話に引き込まれていくのだ。
週末のブランチはプラザのトレーダービックスで。
その後はセントラルパークをメトロポリタン美術館まで歩き
絵の講釈を受けた後、ターバン・オンザ・グリーンでお茶をするのが
ひそかな楽しみに変わった。
あの時の感情は何だったのだろう。
今分析してみても愛情に似た好意は確かにあったが
彼女を自分の恋人にしたいなんてレベルの対象に考えられないのだ。
彼女の持てる全てを知りそして一つでも多く吸収したい。
教会の神父さんに対する思いとでも言おうか。
聖母マリアから教えをこうている感覚だ。
ある日、俺が英語ができなくて悩んでいると話した事があった。
この話題は日本人に会うと必ず出てくる話題だ。
当然いつものようにいろんな自分なりの勉強法が聞けるのかなぐらいに
思っていた。
K子のは言った。「本じゃないんでしょ。会話でしょ。シェイクスピアや聖書なら
理解するのちょっと大変だけど会話の英語はむずかしいのないじゃない。
ぜんぜん大丈夫だよー。」
俺に取って目からポロリと鱗が音を立てて落ちた瞬間だった。
もしかして俺は世間の決める苦しいもの大変なものと言われている感覚を
そのまま受け入れているのかも知れない。
自分の目で判断する、価値を測る、そんな事をしてこなかったのではないだろうか。
常識や慣習がどれだけ人の能力が伸びるのを阻害するか思い知った。
彼女は心理学を専攻し将来の夢はPhd(博士号)を取って病気と正常の境界線あたりで
苦しんでいる多くのビジネスマンを救う精神科の医者になる事だった。
そして後年、それは見事叶えられた。
彼女の言葉がどれだけ俺に力を与えてくれたか。
愛を越えた尊敬の感情を生涯初めて経験させてくれたK子に今も心から感謝している。
マンハッタンに来てまだ間もない頃、
電通ヤング・アンド・ルビカム社で打ち合わせがあった。
日本企業がスポンサードする国際スポーツ展示会の打ち合わせだった。
うちの会社の東京オフィスからの依頼のテンポラリーなアサイメントだった。
ここのオフィスは特徴的でとにかく奥行きが10mぐらいしかなく横に80mくらいの
うなぎの寝床みたいなのだ。
社員の80%が管理職でそれぞれが個室を持つ。長い廊下を突き当たると
会議室がある。
出席者は8人。うち5人は日本人で後はアメリカ人。
俺がこのような日米同席の会議では英語で議事が進行され手元に配布される資料は
全て英語。さらに意見の交換も英語だ。
会話をキャッチアップするのも一苦労で最初は内容の2割も理解できなかった。
手元の資料を読もうとすれば耳は留守になる。
まして質問されても稚拙な英語でしか返せない。
出席者の日本人からは鼻で笑われていた。
何よりも恥ずかしかったのはいつも日本語で話している日本人相手に英語で話さないと
いけない事だった。
出席者のアメリカ人に分からない日本語で会議で話すのはご法度なのだ。
しかしこれがなかなか辛い。さらに相手が達者な英語を見せ付けるがごとく
「どうだ、分かるかこれが」と言わんばかりのバリバリの巻き舌のスラングで
話して俺が理解に苦しむと「こんなのも理解できないのか」と言うような表情を
する。こういう事をするのは女性が多いんだ。
マンハッタンに住む日本人女性は日本に住む日本人女性とは別の生き物かと
思ってしまった。
月日が流れ英語力は相変わらずでも度胸と肝は据わってしまい、相手がどんな
大人数であろうと日本人であろうとアメリカ人であろうと何百人の聴衆の前で
話す事は苦にならなくなった。
いや、むしろ好きになった。
でも今でも感じるのマンハッタンの日本人女性は野性味が強い。
ビンビンに伝わってくるのは自分を「デキル女性」に見せたい事。
「なめるなよ」「ほら尊敬しろ」と言わんばかり。
仲間と手を合わせて仕事をする事よりも戦う事の方が得意のようなのだ。
十数年の付き合いのある仲間とある日突然仲違いして凄まじいコンフリクト(闘争)を
繰り広げる。
彼女らを見ていると共同事業がいかに難しいか思い知らされる。
儲かっては利益配分で、失敗したら責任のなすり合いでかならずもめるのだ。
あれだけ姉妹みたいに中が良かったのに。
不信のシナジー効果はとりとめもない事を思い知らされる。
相手が私を疑っているとこちらは思ったとする。その疑念は隠していても
どこか表面に出てしまう。
すると相手はそれを察知してこちらに同じくガードをややあげる。
するとこちらはますます疑う。
この負のスパイラルにはまりあっという間に人間関係の崩壊への
導火線に火がつくのだ。
マンハッタンはプライベートでもビジネスでも出会いと離別の回数は
東京の何十倍も多いだろう。
ひとつ言える事。
優しい女性日本人と日本料理が恋しかった。
カリブ海の小さな島の港街を歩いていると子供たちから「チーノ、チーノ」とか
「チンク」って言われた事があった。
「チーノ」とはスペイン語で「中国人」という意味だ。
俺が「ソイハポネス(俺は日本人だよ)」と言うと「だったらチーノだ」と言われた。
チーノとは東洋人一般を馬鹿にした言い方なんだ。
「チョリーナ・ユー・ワナ・ナックル・チョリソー?」(インディア野郎、ゲンコツの
チョリソ欲しいか?)ってこっちもやり返す。
NYでも普通に生活しているとオフィスでもレストランでも、日本人を
馬鹿にしたような態度をされることがたまにある。
5番街のカルティエやエルメスで、日本人観光客がたまにどっと押しかけたり
するとショーケースにいるスタッフがペラペラって普通の日本人に聞き取れないような
速度で日本人に向かって日本人の悪口を言っていたのを何度か偶然聞いた事がある。
笑顔で「こいつらイエローモンキーに買われる商品が可愛そう」
って。
本屋でトーマスクックの時刻表を買いに行った時、レジで「お前ら黄色い猿ににこういうものがわかるのか?」という態度を取られた事もあった。
俺は笑いながら「あんたら白い豚がこんな本作れるなんて大したもんだぜ」って
言い返したら真っ赤な顔してレジから飛び出て来たのを他の店員が止めていた。
LAのレストランのローリーズでValet Parking (ボーイに鍵を渡して駐車してもらうパーキング、バレーパーキングと発音する)でいくら待ってもボーイが車を取りにこない。
20分も待たされた。
その時は安物の大衆車だった。
別の日キャデラック・フリートウッドで同じレストランに乗り付ける。
弾かれた様にボーイがすっ飛んで来る。
実はアメリカでは車を見て差別をするあからさまないい例だ。
日本人は自分たちが世界の先進国で、世界中の人が日本に憧れ、
日本を尊敬し、日本みたいになりたい思い込んでいるようだ。
しかし、現実は違う。
日本人は、よくアメリカの黒人差別の「ルーツ」とか「アミスタッド」なんかの
映画を見て涙し差別は許されないなどと言うが、実は黒人が日本人を差別している。
俺がバハマで休日を過ごしていてもリゾート客はほとんど白人の欧米人だ。
そこに場違いな東洋人がふらふらと迷い込むと、欧米人観光客からも、
ホテルのスタッフからも、現地の黒人からも差別を受けることになる。
日本人は欧米人に比べれば、ランクは下に見られる。
日本人は東南アジアでは金をばらまいていても、丁重な扱いを受けてるつもりでも
彼らが敬意をはらっているのはお金に対してだ。
バンコクでも欧米人には「サー」と返事しても、日本人には「ミスター」と返事をする。
シェラトンホテルの宿泊料金が高いのは、従業員に人種差別をしないように教育しているからなのだ。
世界中のほとんどの人は、日本が一流国だなんて思っていないし、
関心も無い。
ただ日本の女の子が世界中で人気なのはこれも実は差別なんだぜ。
別の意味でな。
NYで人気のComic Strip Liveってコメディショーで名を上げてきた
RIOって
日本人コメディアンがいる。
これで笑える日本人がいたら辛いぜ。これで飯食ってるRIOを
一度ぶっ飛ばしてやりたいぜ。
でも考えて見てくれよ。京王プラザホテルが東洋の団体ツアーでいっぱいだが
もしニューヨークのウォルドーフアストリアホテルのロビーが日本人で
ひっくり返っていたとしてそれを見たアメリカ人がどう感じるかって事を。
一流のブランド品を所詮身にまとってもいいホテルに泊まっても
イエローはイエローとしか見られないんだな。
アメリカの富豪連中でカーマニアはどの車に憧れるか分かるかい?
フェラーリ?ランボルギーニ?メルセデス・マイバッハ?
彼らに言わせるとこんなのはガキの車なんだそうだ。
日本人はほとんど耳にした事がないだろうが
「デューセンバーグ」 憧れるとしたらこの車しかないのだ。
1929年から1937年までたった8年の間に、僅か380台しか生産されなかった
ハンドメイドの超高級車。
アメリカ人にとっては、古きよき時代の代名詞ともいえるクルマなんだ。
『一番大きく、早くて、高価で、最高品質の車』をポリシーに作られた車なんだ。
ハリウッドでスターの証としてクラーク・ゲーブルやゲイリー・クーパー、
グレタ・ガルボ等が愛車としていた。
ハリウッドのチャイニーズ・シアター前のレッドカーペットに乗りつける車は
決まってデューセンバーグだ。
当時のエスタブリッシュメントや欧州の皇族たちにもファンは多かった。
さらに禁酒法の時代、マフィアのボスたちもこのステータスに憧れ
愛車にしていた。映画「ゴッドファーザー」にも見ることができる。
贅の限りを尽くした超高級車であるから、無意味なくらいデカくそして重い。
装飾品が満載。
まず、まともに走りを楽しむことはできないとすら言われていた。
しかし実際は『モデルJ』のエンジンは当時はレーシングカーにしかなかった
DOHCが採用され、給・排気ともに2つのバルブ(つまり1気筒あたり4つの
バルブ)を備えた排気量7リッター、265馬力を誇り、
3トンもある車体を最高時速192kmという高速で引っ張った。
このエンジンは加速力もすさまじく、停止状態から時速160kmに達するまで
わずか21秒しかかからなかったという。
今ではピンとこないかもしれないが当時の車は5馬力や10馬力が
当たり前の時代だったのだ。
まさに「モンスター」だったのだ。
DOHCや4バルブが装備されるなど当時のレベルからすれば脅威なのだ。
いいかい、1920年代の話なんだぜ。
デューセンバーグ社はエンジンとシャーシーのみを
顧客に販売し、顧客は自分の好みに合わせて、腕利きコーチビルダーに
ボディを贅を尽くしてハンドメイドさせ架装させて乗っていた。
そのため同じ車種といえど2台と同じデューセンバーグは存在しなかった。
そうして完成した車は現代の車には決して求め得ない神業の職人芸や
エレガントさや壮大さが息づいている。
内装の美しさはまさにため息ものだ。
ちなみに『モデルJ』の価格はシャーシーのみで8,500ドル
でボディまで含めると30,000ドル近くの
金が必要だった。
当時の代表的大衆車フォード・モデルAの価格が500ドルだった時代の話である。
1932年には『モデルJ』のエンジンにスーパーチャージャーを搭載し、
320馬力・最高時速208kmまで威力を高めた 『モデルSJ』が発売されたものの、
オーナーであるエレット・ロバン・コードの破産によって1937年にデューセンバーグは
その歴史に幕を降ろした。
しかしデューセンバーグはコレクターの手によって大切に親から子へ乗り継がれ
市場にたとえ出てもサザビーズやクリスティーズで2億や3億といった値段で取引される。
ニューヨークの犬のグレートデン連盟の会長がたまたま逢った時、デューセンバーグの
トレーナーを着ていたので声をかけると案の定オーナーであった。
好意で見せてもらう事ができた。
デカさと豪華さに圧倒されるが狂乱の1920代のアメリカにしばし思いを馳せる事ができた。
Uターンする時は反対車線も入れて4車線全部使っても切り返しが必要な位
ハンドルは切れない。
これを作った職人たちや最初のオーナーたちはとっくに鬼籍に入っているが
彼ら男たちの少年の様なやんちゃな夢はこの車に生きている。
メーターを見ているとこの車にふと呼吸を、鼓動を感じるのだ。
アメリカの古き映画の大物が登場するときには必ずデューセンバーグが登場する。
まさにチャップリンの時代なのだ。
日本人のハリウッド・スターのグレート・セッシュー事、早川雪州も
オーナーであり助手席の女性をドアを開けておろす時に自分の毛皮を
水溜りにひいて女性の靴が汚れないようにした。
まさに絵になる極限のリッチなレディーファースト光景だ。
アメリカのセレブなら誰でも知っている車を知っている日本人はほとんどいないのは
いったいなぜなんだろう。
デューセンバーグでプラザホテルに乗り付けてドアマンの驚く顔が見てみたいぜ。